内田氏と城氏の立場は結構近いのではないか

「若者はなぜ3年で辞めるのか?」を読む』について。


年末に私も城繁幸氏が著されたこの本を読んでいたことで、内田氏のこの投稿に目がとまりました。
内田氏は読後「しっくり」しないと感じ、その原因を次のように分析しています。

これは仕事とそのモチベーションについて書かれた本のはずであるが、この200頁ほどのテクストの中で、「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていないからである。
要するに人間は金が欲しいんでしょ、という若い著者の「クール」な諦念(と申し上げてよろしいであろう)が全体に伏流している。
だが、私は「要するに人間は金が欲しいんでしょ」という「リアル」な人間観そのものが「3年で辞める若者」を再生産しているのではないかと思えてならない。

内田氏は、城氏の主張が『労働条件というものを「能力に応じた賃金」という「合理的な」ものに設定』すべきだという思想に基づくものと分析しており、しかしそれでは「私たちの労働パフォーマンスは一気に萎縮してしまうだろう」と説いています。


続けて内田氏は次のように述べています。

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。
人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?
そういうふうに問題を立てなければ、「なぜ若者たちは3年で辞めてしまうのか?」という問いには答えることができないだろう。
答えはもう書いたとおりである。
人間は「フェアネス」の実現と、「信頼」に対する応答のために働くときにその能力の限界を超える。

つまり内田氏は次のように主張しているわけです。

城氏が言うような「要するに金」といった即物的なものではなく、「フェアネス」「信頼」といったものこそが我々の労働意欲を大きく支えているのだ。


しかし城氏にこの観点が欠けているでしょうか。私はむしろ、城氏が内田氏に近い主張をこの本の中で論じているように思えます。先に引用したとおり、内田氏は『若者は〜』について次のように述べます。「「私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?」という基本的な問いが一度も立てられていない」


しかし城氏は第6章「「働く理由」を取り戻す」の中で我々にまさにこの問いを投げかけています。
なるほど、城氏自身は明確な答えを与えず、働く理由を見つけた様々な人を紹介するだけにとどまります。けれども、この問いは各自が考え抜くべき問いである、というのが城氏のスタンスであることは、この本のところどころで読み取ることができます。
重要なのは城氏がはっきりと次のように述べている点です。

彼らの話を聞いていると、人が生来持っているはずの”働く理由”が、うっすらと見えてくる。政治から趣味まで、一見すると彼らの行動基準はてんでばらばらだ。だが、三名とも、常に自分の動機と真剣に向き合っていることがよくわかる。
簡単に言えば、彼らが義務を負っているのは、他の何者でもない、自分自身の内なる動機に対してだ。
「そんなもの、誰にだってある」という意見もあるだろう。たしかにどんな仕事であれ、そこには「給料を貰う」という世界共通の目的があるのは間違いない。だが、それを土台として、各人の目的はさまざまに枝分かれし、政治・経済、文化まであらゆる活動を形作っているはずだ。
重要なのは、その多彩な枝葉のなかには「定年まで無難に勤め上げる」という目的は本来含まれない、という点だ。それは共通の土台、「毎日飯を食い、ねぐらを確保する」という、純動物的な動機と同じレベルのものでしかない。


私はこの部分こそが、先に引用した内田氏の労働に対する以下の問題設定と同じ次元で語られていると思うのです。

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。
人間が継続的に活気にあふれて働くのはどういう条件が整った場合か?
そういうふうに問題を立てなければ、「なぜ若者たちは3年で辞めてしまうのか?」という問いには答えることができないだろう。


城氏が年功序列制度を批判する根本理由は、能力や成果に応じた適正な賃金を保証しないことにあるのではなく、そこに組み込まれた人の可能性を極端に狭めることによる自由の疎外にあるのだと思います。


また、内田氏が批判する城氏の主張に次のようなものがあります。

老人たちが社会的リソースを独占して、若者の機会を奪っているせいで、日本はこんな社会になってしまった。老人は既得権益を吐き出して、若者に未来を託せ、と著者は主張する。
私はこの主張には一理あると思う。
「フェアネス」が担保されなければ社会は機能しないからである。
ただし、「フェアネス」に対する欲求は年齢とは関係がない。
潤沢に社会的リソースを享受しながら「フェアネス」の必要を痛感している人もいるし、貧しいけれど、「自分さえよければ、それでいい」と思っている人間もいる。
その人が「フェアネス」を希求しているかどうかは、その人の年齢とも社会的な成功とも関係がない。
若者が収奪されている社会にあってもスペクタキュラーな成功を収めている若者はいくらもいる。
だが、彼らはその成功の成果を貧しい若者たちと共有しようとしているだろうか。
私は若者たちが「フェアな分配」を求めていることには堂々たる根拠があると思う。けれど、それが「フェアネス」に対する原理的な配慮からかどうかはわからない。
著者は能力のある人間であれば若くても相応の給与と待遇を獲得し、能力のない人間は老人であっても放逐されるのがフェアな社会だと考えているようである(「強欲で恥知らずな老人ども」というような措辞から推して)。
若い読者の中にはこれを読んで溜飲を下げる人もいるだろうけれど、私は「能力があるけれど貧しい若者」と「無能で強欲な老人たち」というようなシンプルな二項対立で現代日本の社会状況を説明することはいずれ破綻をきたすだろうと思う。
なぜなら、確実にあと20年経てば「老人たち」はいやでもリタイアして、一部の「若者たち」が「既得権益の享受者」の席に繰り上がるからである。


しかしながら、城氏が「能力があるけれど貧しい若者」「無能で強欲な老人たち」の二元論を展開しているとも思えません。
第4章「年功序列の光と影」で城氏は、年功序列制度はそのシステム内部に組み込まれた人には居心地よくとも、リストラの対象となった中高年の人たちにとっては再就職の芽を摘み取る制度であると指摘しています。
また、高齢者の方にしても、企業に入り多くの退職金を受け取り、厚生年金を受給できる人がいれば、自営業などで国民年金にしか頼ることができず、毎月数万円で暮らすことを余儀なくされている
人もいます。そしてこの国民年金は今の若者が払う保険料でまかなわれるわけですが、その徴収が順調でないことは周知のとおりです。
城氏はあくまで、その外側からリソースを搾取し、かつ極めて排他的である点において年功序列制度を批判しているのであって、その被害を受けているのは若者だけに限らないと主張しているのです。


話をまとめます。
城氏は内田氏が批判しておられるように、『私たちは仕事をすることを通じて、何をなしとげようとしているのか?』の問いを立てていないわけではなく、ましてや労働について「どうしたら能力や成果に応じた適正な賃金を保証するか?」という立場で年功序列制度を批判しているわけではありません。むしろ内田氏と同じように、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」という問題意識を持っており、その観点から年功序列制度を批判しているのだと思います。